2013/5/13

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アンネ=ゾフィー・ムター スペシャル・インタビュー

 日本中のファンが注目する来日間近のアンネ=ゾフィー・ムターに直撃インタビューが実現!
 ルトスワフスキを初め、今回取り上げるプログラムについて熱い想いを語ってくれました。

取材・文=城所孝吉(音楽ジャーナリスト/在ベルリン)

アンネ=ゾフィー・ムター

――ムターさんはルトスワフスキをよくご存知だったそうですね。
 そうです。彼は私にとって、現代音楽への扉を開いてくれたキーパーソンでした。80年代の中頃、パウル・ザッハー(スイス人の指揮者で、パトロンとしても名を成した)を通して知り合いました。私は南西ドイツのスイス国境近くで育ちましたが、師のアイーダ・シュトゥッキ(スイスのヴィンタートゥアー音楽院で教えていた)がザッハーの知人だったのです。彼のサロンにはあらゆる現代作曲家が集まっており、ルトスワフスキは1985年、ザッハーを通して《チェインⅡ》(注:ヴァイオリン独奏とオーケストラのための作品)の楽譜を送ってきました。86年にその初演を行ったのですが、これは私にとって人生の分岐点でした。というのは、彼の音楽に感情レベルですぐに入り込むことができたからです。ルトスワフスキの音楽を通して、新しい響きを見つけ出すことができました。私がそれまで意識していなかった音色の可能性を、引き出してくれたのです。
当時私は20代半ばで、ちょうどそうした新しい側面を切り開くべき時期にありました。ルトスワフスキは演奏にとても満足してくれ、「ヴァイオリン協奏曲を書いてあげよう」と言ってくれました。しかし彼は様々なプロジェクトを抱えていたので、既存の《パルティータ》(注:ヴァイオリンとピアノのための作品)をオーケストレーションすることになったのです。初演は88年で、録音も行なわれました。
 今回日本では、オリジナルのピアノ版を演奏しますが、私のお気に入りの室内楽作品のひとつとなっています。というのは、ルトスワフスキの本質を非常によく反映した作品だと思うからです。例えば彼の個人的な状況を強く反映しています。ルトスワフスキは悲劇的な人生を送った人で、ポーランドの精神的上流階級に生まれました。貴族でしたが、それも当時の情勢では危険で、父親は彼が5歳の時に獄中で亡くなっています。そうした人生の苦悩が、作品のなかに表れていると思うのです。彼は生涯にわたって半音階を多く使用しましたが、それによって感情の高揚を表現していたと言えるでしょう。
現代音楽においては、聴衆を単に魅了するだけでなく、本当に心から感動させることは難しく、稀なことだと思います。彼はそれを実現することのできる、貴重な作曲家なのです。

――とてもよく分かります。今年、ベルリン・フィルはルトスワフスキの小特集を組んでいて、私もそのいくつかを聴いたのですが、お客さんは非常に喜んでいました。例えば「管弦楽のための協奏曲」など、拍手が鳴り止みませんでした。
 私が前半にドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲を弾いたマンフレート・ホーネック指揮の演奏会ですね。

――そうです。ルトスワフスキは、明らかにお客さんの心に訴えかけるものを持っている、という印象でした。もちろん音そのものは現代音楽で、非常に複雑なのですが、出てくる響きからパーソナルに共感できる音楽なのですね。
 逆に言うと、現代音楽の作曲家のなかには、そうでない作品、頭でっかちの作品も多いのですよ。部分的には、19世紀末、20世紀初頭の段階からそうでした。例えば私にとって、シェーンベルクは糸口が見つからない作曲家です。実は最近、彼の幻想曲にもう一度チャレンジしてみました。私は辛抱強く、難しい課題に率先して取り組むタイプなのですが、それでもこの作品に私自身との関わりを見つけ出すことはできませんでした。一生懸命練習しても、何か心に響いてくるものがないのです。これに対してルトスワフスキは、どんなに複雑な書法で書かれていても、彼自身の内面を聴き手や演奏家に対して開示してくれます。

――シェーンベルクについては、ムターさんが率直にそう言ってくださって、嬉しく思います。というのは、私もまったく同じで、彼の音楽への入口が見つからないのです。ニコラウス・アーノンクールは、「シェーンベルクはミューズのキスを受けなかった」と言っています。
 そうなんですか。それは名言ですね。キスどころか、出会ったことさえないかもしれない。(爆笑)

――ルトスワフスキは、聴いていてより「楽しい」ですね。Unterhaltlicher(よりエンターテイメント性がある)とでも呼べばいいのでしょうか。
 Unterhaltung(娯楽。対話という意味もある)というのは、お喋りする、ということです。彼の室内楽を演奏することは、知的で楽しく、深い意味に満ちた対話をすることなのです。メンデルスゾーンは、19世紀前半に既に同じことを言っています。お客さんにとっても、演奏を聴くということは、演奏者と対話することです。音楽を聴いて、何かを感じ取り、吸収するのですから。演奏する側も、お客さんが本当に集中して聴いているかは、すぐに分かります。そこには静かなディアローグが存在しているのです。

――今回のプログラムでは、前半にモーツァルトのヴァイオリン・ソナタト長調K.379とシューベルトの幻想曲が演奏されます。
 ト長調ソナタは、モーツァルトの生涯において決定的な時期に書かれました。当時彼は、ザルツブルク大司教と喧嘩して故郷を飛び出し、ウィーンで自活する道を選んだのです。ソナタは一夜のうちに書かれ、ザルツブルク宮廷楽団のコンサートマスター、アントニオ・ブルネッティと彼自身により初演されています。その際、完成していたのはヴァイオリン・パートだけで、モーツァルトはピアノを即興で弾いたのでした。このソナタは2楽章という特異な構成で、アダージョの序奏で始まります。第2楽章が変奏曲である点も変わっていますが、実験的作品だと呼べるでしょう。彼はこれ以前にも20曲以上のヴァイオリン・ソナタを書き、変ロ長調K.454等の傑作に至るまで、ヴァイオリンをピアノから独立させることを試みています。当時のヴァイオリン・ソナタは、「ヴァイオリン付きピアノ・ソナタ」と呼ばれたほどで、ヴァイオリンはピアノの右手の補強でした。ト長調ソナタも、そうした「ヴァイオリンの自立」への途上にある作品だと思います。
 シューベルトの幻想曲は、私とランバート・オルキスのふたりにとって、最も大切な曲に数えられます。音楽家として年齢を重ねれば重ねるほど、意味合いが増してくる作品と言えるでしょう。というのは、我々は自分が愛する人々を徐々に失わなければならない宿命にあるからです。
 この作品の主題は、〈私の挨拶を受けてくれ〉D.741という歌曲から取られており、歌詞は「愛する人から離れて生きなければならないこと」を歌っています。シューベルトの音楽には、常に物語があると思いますが、それは歌詞がついていない器楽作品でも同じなのです。ここには、愛と別離というテーマがはっきりと表れています。普通人々は、チャイコフスキーやラフマニノフの作品が最も難しい、と考えがちですが、それは違っています。シューベルトのこの曲には、ほんの少しの音符しか書かれていません。しかし、ひとつひとつの音に意味があり、少し変えただけで世界が崩れてしまうような緻密さで作曲されているのです。

アンネ=ゾフィー・ムター

――シューベルトの場合、音符の意味を演奏家が読み込み、引き出さなければならない、という側面が大きいように思います。私はムターさんの演奏を聴いて、幻想曲がシューベルトの最後の歌曲と〈岩の上の羊飼い〉 D. 965と似ていると思いました。この曲は、10分にわたる長いリートで、クラリネットの助奏を伴います。内容は同様に死と別れをテーマとしていますが、最後に軽やかなアレグロになり、「春が来る、喜びが来る」と希望が表現されます。幻想曲でもメランコリックな変奏曲が、アレグロに変わって終わりますが、希望を求めるシューベルトの思いが表れているように感じました。
 バッハは、毎週の礼拝のためにコラールをたくさん書いていますよね。これらは多くの場合、苦しみや悲しみを歌っているのですが、最後に急に長調に変わって、明るく終わります。音調が変わる瞬間は非常に感動的なのですが、偉大な作曲家たちは、そうした希望のモーメントを求め、曲のなかに書き込んでいますね。ベルクのヴァイオリン協奏曲がそうですし、グバイドゥーリナの《今この時のなかで》もそうです。シューベルトのこの作品にも、そうした願いが表れていると言えるでしょう。

――6/4サントリーホール公演のプログラム最後の曲は、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタ第1番です。この選曲には、ちょっと驚いたのですが…
 サン=サーンスが、“サロン作曲家”とされているからですね。特にドイツでは、そういうネガティブな評価がされていますが、私はそれは違うと思います。サン=サーンスは非常に面白い経歴の持ち主で、天文学、数学に秀で、さらに詩や絵画でも才能を発揮しています。その作品は色彩美、エレガンスに溢れ、同時に極めて技巧的です。ヴァイオリン作品は、チェロ協奏曲、ピアノ協奏曲の影に隠れている観がありますが、非常に魅力的だと思います。ドイツでは、彼のような作曲家を軽く見る傾向があって残念でなりません。例えばコルンゴルトも、ナチスの侵略によりアメリカに亡命して、映画作曲家になったわけですが、それによって彼の音楽の質が落ちたということにはなりません。アンドレ・プレヴィンは、「コルンゴルトがハリウッド的なのではなく、ハリウッドの作曲家たちが、コルンゴルトのスタイルを真似たのだ」と言っています。

――サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタは、おっしゃる通り非常に技巧的な作品です。
 技巧的ですが、空虚な技巧ではありません。というのはこの曲では、ヴァイオリンのテクニックだけを見せるのではなく、ピアノ・パートとの対話、絡み合いが極めて大きな意味を持っているからです。私はヴァイオリンの技術だけを見せるような作品は、ほとんど弾きません。オルキスは本当に素晴らしいピアニストなので、そんなことをするのはもったいないと思うからです。
 終楽章は非常に難しい曲で、我々は全力で弾かなければならないのですが、同時にとても楽しい。華麗さ、爽快感を味わい尽くす、というのも演奏の喜びだと思います。ルトスワフスキまでが深刻なプログラムですので、お客さんにとっても、最後に感覚的な喜びが得られることは良いのではないでしょうか。いわばご褒美ですね(笑)。

――今回の来日では、ムターさんが聴衆に語りかける演奏会がありますが、これも「ご褒美」でしょうか。
新しいアイディアです。私のことをもっとよく知って頂けたら、という考えからです。

――面白いのではないでしょうか。日本では、ムターさんは「ヴァイオリンの女王」と呼ばれているので、お客さんは気さくな人柄を知って、驚くと思います。
 「女王」と呼ばれているなんて知りませんでした。でもこの通り、全然いかめしくないでしょう?皆さんが私の素顔を知って喜んでくださるのであれば、いい機会だと思います。人々にポジティブな驚きを与えたい、というのは、演奏家としての私のモットーですから(笑)。


アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル
≪特別企画 世界初!ムターのトーク付コンサート!≫
2013年6月3日(月) 14時開演 東京オペラシティ コンサートホール
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2013年6月4日(火) 19時開演 サントリーホール
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