ウィーン少年合唱団の525年(電子書籍特典版)
世界で最も有名な合唱団の一つであり、もっとも古い歴史を持つ合唱団のひとつであるウィーン少年合唱団。
彼らの歩んできた長い歴史の一部を紹介します。
◆15~16世紀:皇帝の聖歌隊として活躍
今から525年前の1498年の7月7日――日本では室町時代後期、戦国時代にあたります――神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアンⅠ世(1459-1519)が、司祭、成人の歌手、変声期前の少年歌手で構成される宮廷合唱団をウィーンに設立するように命じました。これが現在のウィーン・ホーフムジークカペレ(宮廷楽団)とウィーン少年合唱団の原点です。
マクシミリアンは1477年にブルゴーニュ公国(注1)のマリー公女(1457-82)と結婚した際に、宮廷でこのような構成の合唱団と出会い、フランドル独自の複雑な歌唱法(注2)にすっかり魅了されました。1482年にマリーが亡くなると、マクシミリアンはブルゴーニュの宮廷と礼拝堂聖歌隊をウィーンに移しました。その後1490年に、父フリードリヒⅢ世(1415-93)のいとこでチロルを統治していたオーストリア大公ジギスムント(1427-96)の聖歌隊を継承し、1493年に父が亡くなるとその宮廷音楽家たちも引き継いだため、マクシミリアンは3つの音楽団体をかかえることになりました。
マクシミリアンはしばしば遠征に音楽家や少年歌手たちを同行させました。ウィーンに移る2年前の1496年、彼はイタリア戦争(注3)に出征し、当時最も有名な作曲家のひとりであったハインリヒ・イザーク(1450頃-1517)と出会います。仕事を探していたイザークにマクシミリアンは宮廷の作曲家の職を申し入れ、イザークは応じました。/aマクシミリアンはピサの野営地から手紙を書き、礼拝堂付き司祭のハンス・ケルナーと12人の少年歌手、イザーク夫妻をウィーンに移すように命じます。
1498年7月、マクシミリアンの命令によって新設された宮廷合唱団の少年歌手たちは、ウィーンの王宮礼拝堂付き聖歌隊として、毎日行われる礼拝で歌うことになりました。2週間後、マクシミリアンは「歌の大家」である司祭のゲオルク・スラトコニア(1456-1522)と2人の成人歌手に、新たにオーストリア各地から7人の少年歌手をウィーンにつれてくるように命じました。この少年たちの名前は出身地をとってリエージュのアダム、ベルゲンのベルンハルト、ニーダーエスターライヒのクレムスのマティアスとシモン、ブルック・アン・デア・ライタのシモン、オーバーエスターライヒのグムンデンのヨハン、ニーダーエスターライヒのイップスのシュテファンと記録されています。彼らは衣服と帽子、報酬の金銭を与えられました。そしてさらにインスブルックから4人、フライブルクから2人の少年歌手がやってきました。
初期の聖歌隊では、スラトコニアとケルナーが主指揮者、イザークが首席作曲家として活躍し、3人とも少年たちの指導にあたりました。聖歌隊はしばしばマクシミリアンの旅に同行して国内各地を訪れ、帝国議会(注4)や国家の祝祭行事、結婚式、国葬で歌いました。彼らは次第に帝国内で最高の聖歌隊と認められるようになり、他の聖歌隊もその音楽を手本にするほどの輝かしい存在に成長しました。
1531年に皇帝の座に就いたマクシミリアンの孫フェルディナントⅠ世(1503-64)の時代、ウィーンの王宮礼拝堂には24人の少年歌手、約30人の成人歌手と演奏家が所属していました。マクシミリアンに仕えていた作曲家ハインリッヒ・フィンク(1444/5-1527)や、ともにフランドル出身のアルノルト・フォン・ブルック(1500-54)、ピーテル・マーシンス(1505-62)といった合唱指揮者たちが少年たちを指導しました。聖歌隊はかつてと同様に、毎日の礼拝や国家の重要な行事で歌い、国の代表としての役割を担っていました。
1564年、フェルディナントⅠ世が死去し、息子のマクシミリアンⅡ世(1527-76)が帝位を継承しました。当時は宗教改革が本格化しており、貴族の中にもプロテスタントへの改宗者がたくさんいました。マクシミリアンはカトリックとプロテスタントの融和を望み、教会音楽は両者に受け入れられる必要があると考えました。そして王宮礼拝堂の聖歌隊長のヤコブス・ファート(1529頃-67)とフィリップ・デ・モンテ(1521-1603)がエキュメニカル(教派を超えた)な宗教曲を作曲しました。マクシミリアンの治世には、少なくとも12人の少年が聖歌隊に所属していました。
マクシミリアンの息子ルドルフⅡ世(1552-1612)は宮廷をプラハに移しました。彼は聖歌隊を変えることなく引き継ぎ、音楽に特に興味を示してはいませんでしたが、自分の聖歌隊がすばらしいことはよく理解しており、帝国議会に出席する際には必ず少年と成人の男性歌手たちをつれていきました。
◆17~18世紀:組織とレパートリーの拡大
1619年に神聖ローマ皇帝となったフェルディナントⅡ世(1578-1637)はイエズス会の信者として育ったため、カトリック重視の統治を行いました。彼の宮廷音楽家の多くはイタリア出身で、オーストリアに新しい音楽様式をもたらしました。王宮礼拝堂聖歌隊は12人の少年歌手を含む40人の合唱団と20人の演奏家で構成されており、ジョヴァンニ・プリウーリ(1575頃-1626)、続いてジョヴァンニ・ヴァレンティーニ(1582頃-1649)がカペルマイスター(宮廷楽長)を務めました。宮廷では教会音楽だけでなく大規模なオペラや華やかな馬のバレエが作られ始め、世俗音楽の需要が高まりました。カペルマイスターは運営面の業務で忙しくなったため、リハーサルや指揮、作曲といった実務的な仕事はもっぱら助手が担当するようになりました。宮廷の儀式や祭礼、祝典に多くの音楽が必要になり、皇帝レオポルトⅠ世(1640-1705)は、作曲のみを任務とする宮廷作曲家のポストを新設しました。
王宮礼拝堂聖歌隊は大規模になり、皇帝カールⅥ世(1685-1740)の時代には120人の音楽家を擁するまでになりました。カールは贅沢な生活を送り、多額の借金を背負ってしまいます。跡を継いだ娘のマリア・テレジア(1717-80)はさまざまな政治問題に直面しました。彼女は女性であることから、他のヨーロッパの君主たちだけでなく、自分の臣下たちからも認められるために戦わなければなりませんでした。たとえばプロイセン王は彼女をただちに戦争(注5)に引き込みました。マリア・テレジアには音楽に関心を向ける余裕がありませんでした。1746年に宮廷の音楽家は教会音楽および室内楽専門のグループとオペラ専門のグループのふたつに分けられ、それぞれにカペルマイスターが就任することになりました。前者のカペルマイスターに選ばれたのはシュテファン大聖堂のカペルマイスターでもあったゲオルク・ロイターⅡ世(1708-72)です。彼はしばしばシュテファン大聖堂の少年合唱団員で王宮礼拝堂の少年聖歌隊を補強しましたが、そのうちの2人がヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)と弟のミヒャエル(1737-1806)でした。この2人の歌唱はマリア・テレジアに大きな感銘を与えました。
マリア・テレジアの息子である皇帝ヨーゼフⅡ世(1741-90)は、様々な改革と経済政策で知られ、王宮礼拝堂の廃止も検討したことがあります。彼は母が創設したウィーンの宮廷劇場をドイツ語演劇を上演するドイツ国民劇場(現ブルク劇場)に改編し、聖歌隊員をオペラにも出演させるように命じました。そのため少年たちはより多くの仕事をすることになりました。1787年、ウォルフガング・モーツァルト(1756-91)がクリストフ・グルック(1714-87)の後任として宮廷作曲家となり、翌年にはアントニオ・サリエリ(1750-1825)がカペルマイスターに就任しました。
◆19世紀:シューベルトとブルックナーの参加
1808年、フランツ・シューベルト(1797-1828)という特別な音楽の才能に恵まれた少年が、少年聖歌隊のオーディションに合格しました。彼は美しい歌声を持ち、ヴァイオリンとピアノを弾き、対位法と通奏低音も理解していました。サリエリから作曲の個人レッスンを受けたシューベルトは、在学中に数曲の室内楽と最初のリートを作曲しました。
サリエリの後任として1824年にヨーゼフ・アイブラー(1765-1846)がカペルマイスターに就任しますが、時代は変わり、初代オーストリア皇帝のフランツⅠ世(1768-1835)、続くフェルディナントⅠ世(1793-1875)、フランツ・ヨーゼフⅠ世(1830-1916)らは音楽にほとんど興味を示しませんでした。王宮礼拝堂聖歌隊はハイドン兄弟、モーツァルト、シューベルトの曲に加え、サリエリ、アイブラー、ベネディクト・ランドハルティンガー(1802-93)、ヨハン・ヘルベック(1831-77)らの作品をレパートリーとして活動を続けました。少年の多くは、その後、歌手、演奏家、指揮者、作曲家として立派なキャリアを積んでいます。ヨーゼフ・ズーハー(1843-1908)、ハンス・リヒター(1843-1916)、フェリックス・モットル(1856-1911)、クレメンス・クラウス(1893-1954)、ロヴロ・フォン・マタチッチ(1899-1985)は国際的に有名な指揮者となり、リヒターとカール・ルゼは宮廷楽団の音楽監督を務め、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの創始者クレメンス・クラウスも、第二次世界大戦後に音楽監督に就任しました。1868年にはアントン・ブルックナー(1824-96)が王立礼拝堂のオルガニストおよび少年聖歌隊の教師となりました。
◆20世紀から現在まで
1918年11月、第一次世界大戦に敗北したハプスブルク家の帝政が崩壊すると、礼拝堂聖歌隊は演奏活動を停止しましたが、音楽学者グイド・アドラーをはじめとする政界や芸術界の著名人の働きかけにより、1919年に活動を再開しました。1921年、政府が王宮礼拝堂の管理運営を担当することになり(注6)、1924年、最後の礼拝堂総長のヨーゼフ・シュニット神父(1885-1955)が私財を投じて、少年聖歌隊を私設の少年合唱団として再興しました。当初、彼らは「旧王宮礼拝堂の少年歌手たち」と呼ばれていましたが、1926年に「ウィーン少年合唱団」が正式名称になりました。この年、合唱団はツアーを開始して大成功を収め、新たに2つのグループと研修生のグループが設立されました。1932年、ウィーン少年合唱団は初めてアメリカを訪れ、1934年から翌年にかけてはイタリア、セイロン(現スリランカ)、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモア、アメリカ、フランスを回る世界ツアーを行います。そして1955年にNHKの招聘で初めての日本公演が実現しました。その後も彼らは今日にいたるまで世界中を訪れては「天使の歌声」で人々を魅了し、大喝采を浴び続けています。
資料提供:ウィーン少年合唱団
翻訳・編集:森類子
注釈
(1)ブルゴーニュ公国
中世フランスの公国。10世紀のカペー家を祖とし、一時は現在のフランス東南部からネーデルラント(現在のベネルクス3国、ドイツ西部、フランス北部にまたがる低地地帯)、フランドル(現在のフランス北端部からベルギー西部の地域)に及ぶ広大な領土を支配していました。男子の世継ぎをもたなかったシャルル勇胆公(1467-77)の死後、ひとり娘マリーの夫マクシミリアンⅠ世のハプスブルク家がネーデルラントとフランドルを継承しました。
(2)フランドル独自の複雑な歌唱法
15~16世紀にフランドル楽派と呼ばれるフランドル地方出身の作曲家たちがヨーロッパ各地で人気を博しましたが、彼らの特徴として知られるのが複雑な技巧によるポリフォニー(多声)の声楽曲でした。マクシミリアンⅠ世の宮廷で活躍したハインリヒ・イザークもフランドル楽派のひとりで、1539年発表の世俗合唱曲《インスブルックよ、さようなら》の旋律は、後にバッハの《マタイ受難曲》に引用されるほど有名でした。
(3)イタリア戦争
イタリアの支配を巡るフランス王家とドイツ、スペインのハプスブルク家の争いから始まった1494~1559年の国際紛争。マクシミリアンはドイツ王として1494~98年の第一期イタリア戦争に参戦し、シャルルⅧ世率いるフランスが敗退しました。
(4)帝国議会
神聖ローマ帝国の選帝侯を含む諸侯、高位聖職者、自由都市の代表、外国の使節らが出席する身分制議会で、その際に音楽演奏、舞踏、演劇などの催しや祝宴も行われました。1507年のコンスタンツ帝国議会の開催にあたってはイザークが大作のモテットを作曲し、マクシミリアンと神聖ローマ帝国を讃える歌詞はスラトコニア司祭の作と考えられています。
(5)戦争
1740~48年に行われたオーストリア継承戦争。カールⅥ世が死去すると王女マリア・テレジアの即位にバイエルン、ザクセン、スペインなどが反対し、フランスもそれを支持します。さらにプロイセン王フリードリヒⅡ世がオーストリアのシュレジエン州を占領。アーヘンの和約でマリア・テレジアの王位継承は決定したものの、プロイセンのシュレジエン領有も認められ、オーストリアは大きな痛手を受けました。
(6)政府が王宮礼拝堂の管理運営を担当することになり
宮廷楽団はオーストリア教育省の傘下に入ることが決まりましたが、少年聖歌隊は国の保護からはずれてしまいました。そのためシュニット神父が少年聖歌隊の維持のために力を尽くすことになりました。