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ストラヴィンスキー「葬送の歌」 世界初演レポート (12/2 マリインスキー劇場)

2016年12月2日 ストラヴィンスキー「葬送の歌」

 埃の積もった開かずの扉付き本棚。周りには楽譜が積み上がり忘れられ誰も開けることのなかった本棚。革命前から、その本棚は壊れて使われなくなった楽譜、どこかから抜け落ちたページの切れ端などが無造作に入れられている場所だと誰もが信じていた。薄暗く人を寄せ付けない図書館の片隅にその棚はひっそりと影を隠し106年もの間眠りについていた。1862年に開校されたロシア最古のサンクトペテルブルグ音楽院が2015年から改修工事に入り、全館閉鎖が決まったのは去年春。隣接する建物に音楽院機能を全面移行が急遽決まり、図書館の楽譜や本も慌ただしく引越しの準備の中にいた。そして、ついにその100年以上開けられることのなかった本棚も開けられることとなり、1世紀越しの新鮮な空気に触れることになった。ところが、その中から失われていたと思われていた楽譜が発見され大騒ぎになった。作業をしていた図書館員達は、すぐに音楽院の音楽学部部長のナターリア・ブラギンスカヤ女史を呼びにやり、一体この楽譜が何であるか鑑定が行われたのだ。

ストラヴィンスキーが自身の恩師リムスキー=コルサコフの死に寄せて書いた「葬送の歌」(作品5)。発見されたのはこの作品は、ストラヴィンスキーが自伝の中でも書いているように革命のどさくさで失われてしまったと本人も思っていた、ありとあらゆる作曲家の作品リストには名前はあるものの「紛失」と書かれていた、あの作品のオーケストラのパート譜だったのだ。楽器ごとに順番に重ねられた手書きのパート譜は古びたポートフォリオに収められ、厳かな雰囲気を湛えていた。誰の目にも、ただその様子から何か貴重なものだというのが分かるほどだった。

ブラギンスカヤ女史のリーダーシップのもと、この曲に日の目を見せようという動きがすぐさま始まった。この大発見は去年音楽界を揺るがす大きな出来事であったのは記憶に新しいが、すぐに演奏にこぎつけるには幾つかのハードルを越える必要があったそうである。世界中から「初演をうちでやりたい」というオファーが殺到したそうだし、ストラヴィンスキーの親族の了解を受けるのに時間を要し、さらに時間を割かれたのは総譜は発見されなかったのでパート譜から総譜を起こす必要があったということ。音楽院の隣にあるマリインスキー劇場の芸術総監督ゲルギエフ氏の尽力もあり、音楽院とマリインスキー劇場のタッグで全ての問題が解決され、ようやく2016年12月2日、マリインスキー劇場コンサートホールで記念すべき世界初演と相成った(1908年に作曲され、1909年に音楽院の大ホールで演奏されているので厳密には初演ではないが、失われていたと思われていたものが改めて「世界に向けて初演」ということで、世界初演と呼んでいるようである。)

マリインスキー劇場のコンサートホールには世界中からのメディアや、オーケストラの幹部などが集まり、とりわけアメリカ、フランスからの来客が多かった。演奏に先立って、ストラヴィンスキーのファンページなどでは盛り上がりを見せ大きな期待と、ストラヴィンスキーの初期作品への関心の高さが非常なものであることが報じられた。初演前には舞台上でブラギンスカヤ女史自らが発見の経緯やオーケストレーションの特徴など詳細なコメントがあり、音楽史的にも大変貴重な瞬間に立ち会っているのだという意識が会場の中に共有された。

コントラバスの厳かなうごめくピアニッシモのライン、ヴィオラのトレモロに続いて弦楽器全体が作り出すよどめきは、「火の鳥」の最初を思い出させる。クラリネットがセンチメンタルなメロディーを歌い出し、ハープとフルートが音楽の雰囲気を変え、数小節ごとに「思い出」が煌めいては消え、徐々に一つのクライマックスを作る。オーケストレーションでこうして色彩を変えていく旨さは、師のリムスキー=コルサコフ譲りなのだろう。幻想的な雰囲気を持つ曲でいわゆる式典用の葬送曲とは全く意が異なる。聴くものが音楽の方へ没頭するタイプの曲で、ロマンティックでさえある。

会場はしっとりと音楽を味わっていた。大きな拍手に包まれ、ゲルギエフはまず「拍手は作品へ作曲家へ」という意味で総譜を手に取り会場に指し示し、ゆっくりと音楽の余韻が沸き立つかのように聴衆の耳は会場に残った音がないか探っているような不思議な雰囲気が起きた。

翌日のロシア・メディアを始め、この曲がいかに演奏され、世界中のファンがペテルブルクにやって来て聴き、大きな成功とともに106年の時を超えて悠久の時がそこに蘇ったことを大々的に報じられた。

浅松啓介(音楽ジャーナリスト 在サンクトペテルブルグ)