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フェルッチョ・フルラネット インタビューその2(マリインスキー・オペラ)


©Igor Sakharov

インタビュア:高橋美佐(イタリア語)
構成・質問:岸純信(オペラ研究家)

インタビューその1はこちら


Q: 演出についてです。ジョルジョ・バルベリオ・コルセッティ氏のこの演出は、いかがですか?
 今年はじめてこの演出で歌いましたが、よく理解しています。個性の強い演出ですね。いわゆる「トラディショナルな」ものではないです。が、音楽とリブレットには忠実に仕上がっています。その点は私の姿勢と一致しています。近年は、思いつきだけの演出をする演出家も多くいて、そのようなことに私は納得できず、喧嘩にまでなってしまうこともあるのです。きちんとしたプロの演じ手に、音楽や脚本に書かれていないことをさせようとするからです。そのようなことはしかし、コルセッティ演出のドン・カルロに関しては、なかったですね。歌っていて気持ちのよいものでした。自分が関わった舞台の記録に、この演出が加わったことは、幸運と言えます。


コルセッティ演出「ドン・カルロ」/E.ニキーチン(フィリッポⅡ)
©N.Razina


Q: 衣装はトラディショナルなのに対して装置はモダンですね。
 モダンというよりは、正面から見た装置は様式的にはひじょうにまとまっており、シンプルですね。宮殿は照明で数通りの変化がつけられています。現在、このような方式の装置はそれほど珍しいものではありません。もし、私の好みを正直に申し上げてよいなら、シンプルさが美しい、というものよりは、まさにトラディショナルな様式が美しい、というものが最高なのですが。


Q: ルキーノ・ヴィスコンティのプロダクションのような?
 そうです、あれです。2002年にローマで、あの演出で歌う幸運に恵まれました。ほかに同様の魅力を持つ演出としては、ウーゴ・デ・アナのもの。これは、トリノで歌いましたが、それですとか・・・あのときの指揮者はセミヨン・ビシュコフ氏でしたね。
 とどのつまり、歴史的事実を再現する舞台の場合、解釈・美的要素ともに高水準に達しているものは、そう簡単に実現できるものではないにせよ、最低限、ストーリーに対して逆行するような手法をとってはならないだろう、ということです。嘆かわしい事実として申しますが、こんにち、そのような演出が後を絶たないのです。


Q: 音楽特性についてすこし伺いたいのですが。ヴェルディのオペラの中には数作、もともとフランス語で書かれたものがあります。「ドン・カルロ」もそうですし、「シチリアの晩鐘」も、そうですね。
 フランス語版オペラでしたら、「十字軍のロンバルディア人」の仏語改作版である《イェルサレム》も歌ったことがありますね。


「ドン・カルロ」はイタリア語でこそ完璧な味わいが出ます。
Q:オリジナル言語の違いというものが、音楽に影響するのではないでしょうか?
 ご指摘は当たっています。しかも、とくに「ドン・カルロ」においては顕著です。「ドン・カルロ」のフランス語5幕版は、言語による影響が大きく、またすでに音楽としてフランス語のオリジナル5幕版とイタリア語訳詞による改訂版 はかなり違うものになっています。フィリッポ二世とポーザ侯との二重唱など、オリジナルと改訂版 ではまったく構造が違っています。長さが長いですし、一続きではなく、区切られています。ヴェルディもやはり、こんにちでもよくあるケースに対応していたのでしょう…パリからの<フランス語版の>作曲オファーに応じたのは、お金のためだったと思います。報酬は高額に違いなかったでしょう。が同時に、すでにイタリア語版の構想を練っていたのです。後の改訂版のほうが、無駄のない、しかし密度の濃い楽想でした。曲の流れも、迷いのない仕上がりになっていました。それに対しフランス語オリジナル版には、半時間にもおよぶバレエがあったりと、だいぶ違いがあります。私がフランス語版を歌ったのは…もうかなり前ですが…コヴェント・ガーデン、それからエディンバラ・フェスティバルです。包み隠さず、あまり熱心に歌えなかった、と打ち明けます。イタリア語版のフィリッポ二世役のほうがずっと奥深く描かれています…「イタリア的」なのです。ヴェルディのもつ「イタリアらしさ」がごく自然に現れてくる、それがイタリア語バージョンだとすれば、フランス語のオリジナルのほうは、言葉が甘い響きであるがゆえに、なにかが失われてしまうのです。たとえばフィリッポ二世のアリアは、イタリア語バージョンでは悲劇的壮大さを纏いますが、フランス語バージョンではどうも「自室にこもって泣いている」というふうに聞こえてしまいます。ですので、フランス語で書く、という構想そのものがどうもしっくりきませんので、なるべく歌わないようにしています。「シチリアの晩鐘」についても…


Q: 声の使い方にも違いを見ますか?
 フランス語の単語の発音は、あきらかに声の出し方に影響します。『彼女は私を愛したことがない』のアリア、これは、やはりイタリア語で歌うから完璧に味わいがでるのです。フランス語では、そうはなりませんね、残念ですが。「シチリアの晩鐘」をフランス語で歌った時には…ローマでも歌いましたね。


Q: <ローマは>いつでしたか?
 …かれこれ…20年も前になりますかね。「シチリアの晩鐘」のほうは、まずまず、フランス語でもうまくいきましたね。こちらは、言語が変わっても人物像の本質にそれほど影響がでないのです。私が歌ったプローチダ役は、たいへん魅力ある面白い人物として描かれており、表現言語が変わっても、彼は愛国者か?テロリストか?という論点がぶれることがありません。したがって残りの部分でのフランス語が人物像の魅力を損なうことにはなりませんでした。「十字軍のロンバルディア人」についても同じことが言えるでしょう。ただ、「ドン・カルロ」はやはり特別です。あまりにも…イタリア的な作品であるために、言葉が変われば、その姿も変わってしまうのです。


Q:それにしても『彼女は私を愛したことがない』は、有名すぎるアリアで、聴衆も最大の注意をもってこれを聞くわけですが…が、「ドン・カルロ」は長大なオペラで、フィリッポ二世は他の場面にも登場しているわけです。オペラをさらに楽しむためには、我々は、アリア以外のどの場面をもっと気をつけて見るべきですか?あるいは、どの楽曲をさらに聞き込むべきでしょうか?
 もちろん楽しんでいただきたいのでアドバイスしますと、フィリッポ二世とロドリーゴが最初に歌う二重唱、ここは政治上の対論の場面でもありますが同時に人間的な場面です。なぜといいますに、ここでフィリッポは、ポーザ侯のなかに、自分がじつはこのような息子が欲しかった、という姿を見出すのです。ドン・カルロではなく、ね。音楽は素晴らしいですし、ドラマ性の広がりにおいても抜きん出た場面です。まずこの場面で、このオペラの人間描写の深みがみなさんに伝わるでしょう。この二重唱が「ドン・カルロ」のなかでかなり面白いものに感じられてくると思います。
 もう一つは民衆の登場するあの第3幕の一大シーンも…どのような演出で現出するかにかかってはいますが、でも、たいていの場合、ご覧になるみなさんの目を釘付けにしてしまうでしょう。
 そのあとに、フリッポ二世の最大の見せ場、あのアリアで始まる第4幕の始まりです…そしてそれが、宗教裁判長と彼の二重唱へと流れていく。政治と宗教の思惑がからむ場面です。さらに場面はフィリッポとエリザベッタの諍いへと発展してゆき…深く傷ついた王は惨めな弱々しい姿を晒しながら、ポーザ侯とともに部屋を去る。場面は、エーボリ公女の衝撃的なアリアによって幕を閉じます。まさに第4幕が、「ドン・カルロ」を最上級のオペラにしている要、と言っていいでしょう…もちろん、他の幕にも美しいシーンが溢れており、壮麗な作品であり、ヴェルディの芸術的成熟の証となるオペラですが。すみませんね、どうも「自分目線」で断言してしまって。


サントリーホール ホール・オペラ®「ドン・カルロ」公演(2001年4月4日)より
 オペラ・ファンの語り草ともなっている、2001年のサントリーホールでのフィリッポ役の名唱から15年。
 さらなる円熟を重ね、フルラネットの歌唱と演技は最高潮を迎えている。
写真提供:サントリーホール、ホール・オペラ® 公演


運命を変えたカラヤンとの共演
Q:ところでわれわれ、フルラネットさんの有名な「幸運のかつら」のことを存じ上げていますが(笑)、以前、日本のテレビ番組でそのことをお話しになっていましたね、カラヤン氏との仕事で使ったという、あのかつらですが、あれは、10月の来日の際にも持参されますか?
 当然ですよ、決まっています。あのかつらは、いわば私の「唯一のこだわり」なんです。42年のキャリア生活のあいだ、欠かさず持ち歩いているのです。理由は、1986年のザルツブルグ音楽祭での「ドン・カルロ」にカラヤン氏から急遽呼ばれたあの時、その12時間のあいだに起こったことが、私のアーティスト人生のすべてを一変させたからです。※1 たしかにそれ以前に「見込みのある若者」と言われてはいましたが、まさにカラヤン氏から指名を受ける、という事実が起こったのですから。そのときのかつらを買い取って、何度も使っているうちに色が褪せてきたりしますから、手入れをして、いつも新品同様使えるように、整えてあります。あのときの同じかつらです、変えたことはなく、形もいつもきれいに調整してあります。いつでもおなじかつらです。日本にも持って行きますよ(笑)。
※1:1986年のザルツブルク・イースター音楽祭、カラヤンに指名され、急遽代役出演したフィリッポ役で大成功を収めたフルラネットは一躍スター歌手の仲間入りを果たした。以来、フィリッポ役はフルラネットの代名詞だ。


Q:こんにちまでの長いキャリアのなかで、やる気を亡くしたり、エネルギーが続かなかったり、などの、辛い時期というのはなかったのですか?
 嘘のないところで申します、私はキャリアのスタートから今の今まで、幸運に恵まれ、スランプは一回も起こりませんでした。私のキャリアストーリーは、ゆっくりと進みましたが、持続的でした。初期のマネージャーから受けたアドバイスには大変助けられましたね。彼は、私のキャリアはこのようにして築くべき、という、明確な方法を知っていました。つまり、最初の25年間、ほぼモーツァルトのレパートリーだけに絞ったのです。その結果、私の喉には「どんなときにも効く自然治癒薬」が備わったのです。モーツァルト作品を的確に歌うためには、体にとって究極自然な歌い方を身につけなければならないのです。声を張り上げたり、ごまかしたりできないのが、モーツァルトなのです。こうして身についたものが私の中盤のキャリアを輝かしいものにしてくれたのです。その後もさらにわたしの力を押し上げ、キャリアの後半に入っても声の活力を保たせてくれています。あの初期の過ごし方を間違っていたら、いまの私はいないでしょう。たとえば「アッティラ」のような役を歌う時、音域が曖昧でバス域のアリアからバリトン域のカバレッタまでありますが、これも、いま申し上げた基礎があるおかげで、健康な声である意味「苦労せずに」歌えます。自分でも、20年前、25年前を思い出しながら、よくここまで自分の声を保てたな、と感心しますよ。「道案内を得たおかげで」幸運が生かされた、そんなキャリア人生です。マネージャーと私自身の二人三脚で得たものです。来年の春でデビュー42周年ですが、つねによき年月、淀みなき年月でした。


Q:イタリアやヨーロッパではどのようにおっしゃるのでしょう、私たち日本の文化では、このようにも言います:「幸運は才能の一部である。」と。
 なるほど、そうかも知れません…そうかも知れません。もし「宝くじが当たった。」ということならば、これはたしかに「幸運」にちがいないです(笑)。ですがその人自身の適性や身構えといったものを、正しい導きにのせて、最良の方法でそれらを開花させるべく方向を与えられることもまた「幸運」でしょう。そのような幸運は「導かれた幸運」で、それは本人の知恵に基づくものなのです。



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帝王ゲルギエフ&伝説の劇場が威信をかける2演目
マリインスキー・オペラ 来日公演2016



「ドン・カルロ」
10月10日(月・祝) 14:00/10月12日(水) 18:00
「エフゲニー・オネーギン」
10月15日(土) 12:00/10月16日(日) 14:00

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