スティーヴン・コヴァセヴィッチはいわゆるスター演奏家ではない。華やかな弾きぶりで人を魅惑するとか、名技をひけらかして聴衆を圧倒するというようなこととは一切無縁、むしろそうした方向には背を向けて、誠実に作品に向かい合い、曲本来の精神を真摯に表現しようとする正統派ピアニストだ。彼自身、いくつかのインタビュー記事において作曲家を尊敬し作品に奉仕することの大切さを語っているとおり、恣意的な自己主張を排し、作品本来の魅力と美しさを聴く者に伝えようという謙虚な姿勢を彼は何より重んじている。
その確固たる技巧、優れた音楽性からいってもコヴァセヴィッチはまさに現代屈指の名手に数えられる実力者であるが、それにもかかわらず彼が今日の音楽界において今一つ地味な存在にとどまっているのも、そうした作曲家のしもべであろうとする謙虚な姿勢ゆえだろう。現在のクラシック界は、特異な解釈を売り物にしたり、鮮やかな名技をひけらかしたり、あるいは強烈なカリスマ性を発揮したりするようなスター演奏家に、とかく目を向けがちである。現代の商業主義の流れの中にあってはこうした傾向はある点では致し方ないところもあるし、実際にスターであり実力も超一級というアーティストも多いわけで、演奏家の個性の画一化してしまった今日の音楽界を活性化させる役割も果たしているという点では、そうしたスターの存在はポジティブに評価できる面も持っている。しかしそれがために、作曲家に忠実であろうとして地道にオーソドックスな演奏の伝統を究めているコヴァセヴィッチのような優れた演奏家が埋もれがちになってしまうのは、やはり問題といわざるを得ない。
たしかに、外面的効果を排してひたすら作品そのものを掘り下げて表現することに専心するコヴァセヴィッチのような演奏家は、ポピュラーな人気を得るタイプではないだろう。しかしだからといって彼の演奏は、決して近寄りがたいものでも渋いものでもない。学問的志向の演奏家によくある理屈っぽさを感じさせるものでもなければ、一部の哲学的な美学を持った演奏家に見られるようなどこか高踏的な性格のものでもない。彼の演奏には、あたかも心から打ち解けられる人と会話するかのような親密さがあり、一切の衒いも、はったりも、気取りも感じさせないその自然な語り口に耳を傾けているうちに、おのずと作品の内的世界へと導かれ、感動に誘われるというようなところがある。音楽から得る本物の感動、それは演奏家の華やかなパフォーマンスによってではなく、作品に深い共感を覚えた時にこそ生まれる。コヴァセヴィッチはまさに、その親密な暖かい語り口でもって作品そのものへの共感を聴く者の心のうちに呼び起こし、本物の感動を与えてくれるピアニストなのだ。
レパートリーをいたずらに広げることなく、自らが心から愛せる作品のみを演奏するという彼のポリシーも、もちろんこのような演奏姿勢に基づくもので、当然ながらその中心は、いわゆるヴィルトゥオーゾ的な作品ではなく、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスといった内的な精神の表現が求められる作品で占められている。前回(2004年)の来日の折りに東京文化会館で彼が演奏したベートーヴェンの最後の3つのソナタなど、その深遠な宇宙を、決して深刻ぶらない自然な音楽の運びのうちに清澄かつ透徹した表現で現し出したいかにもコヴァセヴィッチらしい名演だった。今回のリサイタルも、ベルク、ベートーヴェン、シューベルトといったまさに彼の資質にぴったりの作品が並んでいる。ベルクの若き日の名作ソナタをどう弾くのかも興味深いが、とりわけ後期のベートーヴェンの内面を映し出す叙情的なソナタop.101や、死の直前のシューベルトが到達した孤高の境地を示すソナタD.960では、コヴァセヴィッチの真骨頂が発揮されることだろう。 |