ヒブラ・ゲルズマーワはモスクワのスタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ音楽劇場のプリマである。と言われてもほとんどの方はピンとこないだろう。かつては私もそうだった。しかし1999年にここで《カルメン》と《愛の妙薬》を観て、一遍でこの音楽劇場のファンになってしまった。その時ヒブラは産休を取っていて舞台には出ていなかったが、若くて美しくて才能のある歌手たちがいることいること!
演出と美術のセンスは抜群に良くて、斬新。さすが演技の神様スタニスラフスキーの伝統を引く劇場だけあって、歌手たちの演技力も俳優並だった。その時私は、なぜヒブラが「チャイコフスキー・コンクール」で史上初のグランプリを受賞した翌年この音楽劇場に入団したのかを、なぜ彼女がここを「ロシアで一番素晴らしい歌劇場」と言っているのかを、完全に理解したのだった。
ちなみに、ダンチェンコ音楽劇場の知名度は日本でこそ低いが、モスクワではかの有名なボリショイ劇場と肩を並べる名門歌劇場であり、私の印象では、今のマリンスキー劇場と共通する若々しい活気とエネルギーに満ちていた。
ヒブラの声の驚異的な美しさと、広い音域と、一片の揺るぎも無いテクニックについては語り尽くされている。それを端的に物語るのが、客席の空気である。ヒブラの登場はそれ自体がひとつの芸術的雰囲気に包まれているが、たおやかな風情で第1声を発するや、聴き手はその透明で伸びやかな声と巧みな表現力に圧倒され、息を呑んでしまう。彼女は、歌の世界を瞬時に作り出す演技力をダンチェンコ音楽劇場で身に付けたと語っていたが、指1本の動き、身体の向きひとつが音楽と分かちがたく繋がっていることを、歌手を目指す者は皆彼女を見て勉強すべきだとつくづく思う。リサイタルの場合、ヒブラの歌は1曲1曲が最後のお辞儀で完結するが、このお辞儀がまた優美極まりない。彼女が「プリマドンナ」というこの世の宝石を磨きに磨いていることがよく分かるのである。
佐野成宏もまた、全く無理のない伸びやかな美声と、板に付いた演技力とで、傑出した存在である。彼の声は、明るさと、強さと、深さと、スターテノールには欠かせない甘さ、哀しさを兼ね備えている。私は初めてこの声を聴いたとき「日本にもドミンゴ級のテノールが出現した!」と大感激したものだ。佐野のイタリア語の発音の美しさは、ローマ歌劇場デビューの際イタリア人音楽家から「イタリア人が歌っているとしか思えない」と言われたほど完璧であり、歌のドラマティックな表現力も、舞台映えする容姿も、欧米人に一歩も引けを取らない。だからこそ、デビュー以来10年も経たずして、彼はヨーロッパ各地の歌劇場から引く手数多のスターになったのだ。
ヒブラと佐野に共通しているのは、ステージのどこにいても存在感が光っているということ。たとえ群集シーンの中にいてもその声が合唱やオーケストラを突き抜けて軽々と客席に届くということ。これこそプリマ、プリモの条件ではあるが、そうなるには努力以上に天性の才能が決め手になるのではないかと、このふたりを聴く度に強く感じる。
今回の共演は、昨年夏のヴェルディ《レクイエム》での共演以来計画されていたと聞く。
互いに理想のデュオの相手と認め合い、今度幸いにもリサイタルの形で共演が実現するのだとしたら、オペラ・ファンにとってこれほど嬉しいことはない。イタリア・オペラとフランス・オペラの中から選りすぐったアリアと2重唱のプログラムに、私は声の競演のみならず演技の競演を予感するし、聴き手は確実にオペラを幾つも観たかのような満足感に浸れるだろう。今後のオペラ界に更に重要なポストを占めていく勢いのヒブラ・ゲルズマーワと佐野成宏のデュオだけに、予想を超えた素晴らしい芸術的成果がもたらされるものと大いに期待している。
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