2月に入り、パリ、ミュンヘン、シュトゥットガルトを経てエウゲニ・キーシンがウィーンにやって来た(11日)。ちょうど1年前に同じ楽友協会で弾いたベートーヴェン「ピアノ協奏曲・全5曲」の余韻がまだ生々しいのだが、今回はリサイタルで、一人ステージに登場したときの態度に強く感じるものがあった。30代半ばに達した堂々たる体躯のキーシンは一段と風格を増し、燕尾服のテール(尻尾)捌きにも矍鑠(かくしゃく)たる余裕を見せて、“若き巨匠”と呼ぶに相応しいオーラがみなぎっている。
演奏もステージ・プレゼンス同様、じつに堂々として、キーシンの今年度の全世界共通プログラムであるベートーヴェンとショパンで、ウィーンの聴衆を圧倒したのだ。ベートーヴェンでは初期の「ハ長調ソナタ、作品2の3」で、古典派の枠組みを守って堅固な造形を聞かせ、時代が下がる「”告別”、作品81a」では、ロマンティックな音の動きに、感情表現がより自由に出てくる、という風にスタイルを明確に区別している。ショパン「即興曲・全4曲」でも、第1曲ロ短調の若く蠢(うごめ)く情熱の嵐、変ロ短調、嬰ハ短調のドラマティックな時代を経て、最後のホ長調で澄み切った世界に達するプロセスが、素晴らしいテクニックの冴えと相まって、じつに鮮やかだ。ロシア人には昔からショパンの名手が多いけれども、同じスラヴの血が騒ぐのだろう。
アンコールは、これまた各都市同じようで、シマノフスキ、リストなどコントラストを生かした4曲なのだが、非常に興味深いのはショパンの「練習曲嬰ハ短調、作品10の4」が含まれていることだ。この曲ではリヒテルの猛スピードが有名だが、今回のキーシンは、もしかしたらさらに速いかも知れない。その豪腕キーシンが、なぜか「練習曲」をまとめて弾かないのが“謎”とされていて、いつ「練習曲・全曲」をプログラムにのせるのかが切望されている矢先、アンコールとはいえ、ついに手を付けたのだから、ウィーンの客席は興奮の坩堝(るつぼ)と化したのだ。
現在のキーシンの、輝かしいパワーあふれる「練習曲・全曲」を聞きたいことでは筆者も人後に落ちないから、演奏後の楽屋で真っ先に本件を切り出す。ところが「みんな期待していると言われても、ボク自身、いつ弾くかわからないですね!」と、完全にはぐらかされてしまった。相変わらずの用心深さだが、微笑みながら相手を煙に巻くように、とぼける風なジェスチャーで質問をかわすなんて、あの生真面目だったキーシンも大人になったものだ、と感心することしきり!
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